配給制の背景からみる、大戦時モデルのジーンズとアメリカンコーヒー
(1942年5月28日~1947年6月11日まで)
第二次世界大戦中、アメリカ国民は様々な形で犠牲を強いられた。
真珠湾攻撃後に米国が宣戦布告すると、政府は配給制度を導入し、個人が購入できる特定商品の量を制限した。ガソリン、バター、砂糖、缶詰ミルクなどの物資は、戦時物資転用する必要があったため配給対象となった。
アメリカ国民が最初の配給カードを受け取ったのは1942年5月である。それは、配給カードで購入可能な商品の一つである砂糖にちなみ「シュガーブック」として知られるようになった。他の配給カードも開発された。それらには航空機、銃、戦車、航空機、麦の穂、果物の絵が描かれ、これを使って配給品を購入した。 アメリカ国民は大恐慌期と同様に、物資を我慢することを学んだのである。戦争中の物品の犠牲は、大多数のアメリカ人にとって日常となった。
大戦中、食料(砂糖、小麦粉、肉など)が不足し、軍需物資に優先的に回されたため、一般市民の生活物資が不足した。これにより、アメリカでは配給制度が導入された。この砂糖配給カード(sugar ration card)は、砂糖などの食料品が不足した際、国民一人あたりに割り当てられた購入量を証明し、指定された量だけ買えるようにする許可証のことである。銃後のアメリカでは、「アメリカンコーヒー」がうまれた理由も「配給制」からであるといわれている。
以下、2018年のモノマガジン掲載記事。
歴史的な出来事は様々なものに変化を強いる。1941年12月、日本軍のハワイ真珠湾攻撃によリアメリカは第 2次大戦に突入したが、戦時体制 への移行は市民生活に大きな影響 を及ぼした。それは軍需品の大規模生産による物資不足で、民間向け消費材は様々な統制を受ける。 現在、薄いコーヒーとして一般化したアメリカンコーヒーだが、これも豆の配給量が制限されたことから生まれたものだ。物資不足の波はジーンズにも及び、そこから戦時モデルが誕生する戦時 は軍需品の生産が最優先だが、市民生活安定のため生活物資の確保礁も重要だ。そこで政府は資材供給と価格の統制を実施。戦争遂行に 不必要な品物の生産を縮小あるいは禁止し必需品の簡素化を指示した。
ジーンズの大戦モデルも政府の簡素化指示によって製造されたが、戦時モデルには「デニムは生地が厚い」という神話が存在する。これが事実なら簡素化などとはいえないが、布地に関する公式の文書は存在しないそこでウエアハウスは未洗いのデッドストック状態で残された戦時モデルを入手し、布地を徹度的に分析。 その結果、糸の番手がַ6.7~6.8と通常より太いことが判明。「戦時モデルのデニムは生地は厚い」と いうのは事実だったのだ!ウェアハウスはこの事実を踏まえて戦時モデルを復刻しており、それらを適宜時代に合わせて使用している。
「戦時モデルはデニム生地が厚い」ということは証明されたが、ではなぜそうなっていて、なぜそれを当時のデニム生地工場やメーカーは宣伝しなかったのか?それはやはり、有事における軍需生産の影響がヒントのはずだ。
生地を作る工場にとって、大戦時に最大の「クライアント」となった米軍、その海兵隊が使用したダックハンターカモの生地で装丁されたニューヨーク綿織物商人会の25年史を見てみよう。
1943年に発行されたニューヨーク綿織物商人会の第二次世界大戦中の綿織物の生産状況を記録した書物である。
生産管理委員会(OPM)とその後継機関である戦争生産委員会(WPB)は、その努力により、工場の民生用織物をほぼ全面的にクオーターマスター(軍需品科)に引き渡すことができた。特定の織物の生産で得られた結果を考慮すれば、委員会の成果の大きさが最もよくわかるだろう。たとえば梳毛(ウール)綾織は、1939年に約25億平方ヤード生産量であった梳毛が、1942年にはその10倍になった。
陸軍によれば、その増加分の38パーセントは、以前は他の織物に使われていた設備を転用したものである。蚊帳は、もともとレースやニット製品産業が供給していたもので、他の繊維に使われていた設備を転用したものである。
1943年には織物工場で100万ヤードの生産量となった。そのすべてが戦争調達機関向けのものだ。サンフォライズドリル(防縮加工の綿綾織)は1940年の2000万ヤードから1942年には1億9000万ヤードに急増した。ヘリンボーンツイルは1,200万ヤードから1億9,500万ヤードに急増した。
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「海兵隊関係者の許可と、J. W. Valen-tine社の寛大なご厚意により、本書はアメリカ海兵隊の迷彩柄のシェルターテントダックを使用しています。」このような時代背景のなかで「民生品」の生産と供給に、既存の衣料品メーカーがどれほど苦労したかは想像に難くない。デニム生地も、同じ原材料の安定した供給はとても叶わなかったのだろう。こうして生まれた「大戦時モデル」は、だからこそ個性的な存在感を誇っている。「銃後のアメリカ」では、戦後も民生品の多くにこの臨時的な対応の後遺症は続いたのだろう。
1930年代、アメリカは世界恐慌の影響を受け、農村をはじめ全米にその不景気は蔓延した。失業者はあふれ、国は様々なプログラムを掲げ、「復興計画」を模索したのはよく知られている。 そこに第二次世界大戦が勃発した。それは軍需産業をはじめとして人々に「仕事」をもたらした。 未開発の土地に工場建設は進み、雇用人が募集され、さらには工場で働く人が集まった。そのような流れで仕事はあらゆる人足を必要とし「ゴールドラッシュは」100年ぶりに、労働者を熱狂させたのである。 ワシントンに駐在したイギリス人は、街のクリーニング店に洗濯物をだしても断られたそうだ。なぜなら、クリーニング店は陸海軍の制服や作業着の洗濯に追われ、とても個人のもの(新参者を)受け付ける余裕がなかった。困ったその男は、仕方なく洗濯物をまとめて郷里(英国)に送ろうと思ったという・・・
このような状況のなかで、当時は労働着であるジーンズはおそらく大きな需要を抱えていたに違いない。 あらゆる業種の工場において、熟練した労働者だけでなく「半熟練工」の大々的投入を必要とした結果、縫製工場においても同じ状況が発生、 その結果、奇しくも我々の心をとらえて離さないあの個体差を生み出したのだろう。
フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領は、世界恐慌後1930年代初頭の深刻な経済問題に対処するため、市民保全隊(CCC)や事業進捗局(WPA)といった緊急救済機関を創設した。1933年3月4日に就任したルーズベルトは、25パーセントの失業率に苦しむ国民に向かって宣言した「われわれの最大の主要任務は、人々を働かせることである」。「CCC」と「WPA」は、資格のある失業者に仕事を与えるだけでなく、国の環境、農業、社会問題を緩和するために結成された。「CCC」は、18歳から25歳までの失業した青少年のためのプログラムで「Tree Army」の異名のとおり、これらは軍隊への自然な関心としての一環も兼ねていた。これに対して「WPA」は「雇用促進局」であり、対象となった労働者の平均年齢は40歳であった。雇用職種は公共事業では道路、橋、学校、病院などのインフラ整備。芸術・文化支援では俳優、音楽家、作家、芸術家などの雇用と作品制作など多岐に渡る。そして、医療、教育、女性向けの仕事である縫製や保育なども含まれた。
*WPA SEWING ROOM
WPA の大規模なプログラムのなかでは、労働に従事するブルーカラーのワークウエアが製造された。それは「SEWING ROOM」と呼ばれる縫製室で作られ、衣料には「Made by W.P.A SEWING ROOMS, NOT TO BE SOLD」(雇用促進局縫製室製品、売り物に非ず)と記載されたタグが付けられた。縫製室のあった州では各州で、裁縫師たちは自分の仕事に大きな誇りを持ち「W.P.A」のイニシャルは「We Patch Anything」(なんでも縫う)の略であると宣言。時には軍隊の衣料を修理し、アレンジして新しい衣服を作り、それらは「WPA」の労働者が着用した。そんな「WPA」の衣料は、デザインと縫製仕様が実に興味深い。デザインのベースはミリタリーワークウエアで、多くのアレンジが施されていること。縫製仕様は「SEWING ROOM」の名の通り、当時ワークウエアで主流だった「還縫い」はなく「本縫い」のみで作られていることである。第二次世界大戦によって工場に軍需が生まれるまでの、牧歌的なぬくもりがそこにはある。
戦時には軍需縫製工場からの求人増加によって、失業者によって構成されたWPAの「SEWINGROOM」からの就業者が増加した。やがてこの縫製室は閉鎖され、まもなくWPA政策そのものが終了することになった。全国失業率は歴史的な低水準に達し、経済危機が緩和されたことで、大規模な連邦救済プログラムの必要性は消滅した。そしてルーズベルト大統領は1942年12月にWPAの終了を宣言したのである。
このように、戦前から銃後のアメリカでは、激動を迎えた。衣料においては生地も縫製もすべてが軍需最優先となった結果が、この大戦モデルのジーンズに集約されているといえよう。
アメリカンコーヒーと、ジーンズ。それらはどちらも銃後の時代によって生まれた
「副産物」といえる。
